The History Of Street Culture Episode-3

ストリートの歴史 エピソード3-1
【ギャングスタラップの開幕】

ギャングスタラップは意外にもNYでもLAでもなく、フィラデルフィアのScoolly D(1962/6/22-)によって開始されます。

エピソード2でご紹介したNYのアーティストBoogie Down Productionsによるアルバム【Creminal Minded】は1987年リリースなのですが、その2年前にScooly Dがドラッグや犯罪など険しいゲトーの日常生活を語った【PSK What Does It Mean?】(1985)が、いわゆる”ギャングスタラップ”と呼ばれる一番最初の曲でした。

そしてこの曲が、当時ある程度知名度のあったLAの俳優でありラッパーIce -T(1958/2/16-)にも伝わり、この曲を参考にIce-Tが今まで目撃してきた強盗・売春・殺人・ドラッグといったLAのゲトーの日常を実況中継したような曲6’N the morningをリリース。
それをきっかけに、ついにLAでもギャングスタラップが開幕します。

【6’N the Mornin’】
『朝6時、警察が家の前にいる
新品のアディダスでトイレを横切って
裏の窓から逃げるんだ
オールドスクールのテープも持っていけないまま
音楽がないのは最悪だが、自由の身だから別にいいのさ
遊び人にとってストリートは帰るべき場所だからな』

この時Scoolly DやIce-Tなどが黒人の苦しい生活や社会問題をラップしたのは、80年代初期から続いていたクラックの流行と、レーガンがクラックを厳罰化して黒人を逮捕しまくることで白人からの指示を得ていたせいでゲトーの治安と家庭が崩壊していたと、いう背景がありました。

 

ストリートの歴史 エピソード3-2
【ゲトーの救世主登場】

クラックの厳罰化により崩壊していた黒人の家庭やゲトーの治安などの酷い状況をぶち壊すべく現れたのが、Dr.DRE 率いるゲトーの救世主N.W.Aでした。

N.W.Aは、黒人達が警察にされた暴力を訴えて政府に反抗し続けたことで、ゲトーの黒人からは多くの信頼を得るのですが、何も知らない世間からは『過激でけだけだしい奴らだ』とレッテルを貼られ、”Hip Hopは乱暴で怖い”といったイメージが浸透していきます。

N.W.Aのリリックは政府に対して攻撃的だったので、FBIから目をつけられたり、ミュージックビデオの放映が禁止されたりしたのですが、最終的に当時の副大統領がテレビを通して『ギャングスタラップは犯罪を助長するから聞くな。ラジオで流すのを禁止する。』と、全国民に呼びかけたのをきっかけに『こんなに警戒されるN.W.Aってどんな奴らなんだ?』と、逆に宣伝効果が働き、N.W.Aとコンプトンの名前が全米に知れ渡ることになります。

※コンプトン:アメリカ合衆国カリフォルニア州南部に位置する都市。

【Fuck Tha Police - N.W.A】リリック一部訳
アンダーグラウンドに生まれた俺は黒人で若者だからってひどい目にあってきた
警察は白人じゃなければやって良いと思ってやがる
あいつらはマイノリティを殺す権利があると思ってやがる
ふざけんじゃねぇ、敵を間違えてるぜ
俺は警察バッジと銃を持ってる弱虫が襲い掛かれるような相手じゃねぇ
収監されても独房の真ん中でお前と戦ってやるよ

 

ストリートの歴史 エピソード3-3
【広がるリアリティラップの認知】


白人のメディアが当時のHip Hopを世間から遠ざけるために、『ギャングスタラップ』という物騒な名前をつけたせいでそう呼ばれるようになりましたが、本来、Scooly DやIce-T、N.W.A達が始めたこの過激な内容のラップは本人達からすればただの日常の一コマで、ゲトーの現実をそのまま話したに過ぎなかった為、自分たちのコミュニティでは【リアリティラップ】(=現実的なラップ)と呼んでいました。
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しかし1987年N.W.Aのデビュー直後、当時19歳だったAnthony Griffinが丸腰の状態で白人の警察に射殺され、更にその撃った白人の警察が無罪になるという大きく取り上げられた事件があったのですが、それをきっかけに世間一般の人たちが『あれ?こいつらが歌ってる内容はもしかして本当なんじゃないか?』と気づきはじめ、ギャングスタラッパーは過激で危険な奴らというレッテルが少しづつ剥がれていきます。

 

ストリートの歴史 エピソード3-4
【全米を揺るがす大事件】


当時19歳だったAnthony Griffinが丸腰の状態で白人の警察に射殺されたのと同じ頃(1989年4月19日)、今度はNYで5人の黒人とヒスパニックの少年たちがジョギング中の女性を襲ったとして冤罪にかけられて逮捕された【セントラルパークジョガー事件】というNetflixでドラマ化もされた全米を揺るがす大事件が起きます。
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このように奴隷制が終わってもなお、奴隷制の時と同じように黒人達をひたすらダシに使う政府に腹を立て、今度はNYから全世界の黒人のヒーローとしてPubric Enemy(1982-)が登場します。
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彼らはセントラルパークジョガー事件が起きた2ヶ月後、『Fight The Power』(1989)という曲をひっさげて、N.W.Aがそうしてきたように政府に全力で食らいついていきました。
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【fight the Power】※リリック一部和訳
『本当に欲しいものを勝ち取るんだ
本当に必要なものを勝ち取るんだ
俺たちにとって言論の自由は生きるか死ぬかの問題なんだ
さぁ権力を持った連中と戦うぞ、権力と戦うぞ』

この曲は黒人の人権運動の時に使われるようになり、遠く離れたヨーロッパのセルビアというところにいた黒人達が人権を主張する時にまで使われました。
そのぐらいインパクトのあったこの曲はHip Hop史上最も挑発的で衝撃を与えた曲として讃えられました。

 

ストリートの歴史 エピソード3-5
【眠っていたビジネスキング】


N.W.AとPubric Enemyの活躍によってLAとNYのゲトーの悲惨な人種差別の現実は明らかになっていきましたが、奴隷制がまさに行われていたサウス(アメリア南部)にあるゲトーの現状はより悲惨なものでした。
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Ice-TがLAにもたらしたギャングスタラップは、N.W.Aの活躍もあってすぐに州をまたぎ、“19歳まで生きていたら良い方だ。”と言われていたニューオーリンズのゲトーに眠っていたビジネスキングことMaster P(1967-)を呼び起こします。
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Master PはLAのサウンド(わかりやすいサビ&コールが特徴)に大きく影響を受けたサウンドと共に、自身で立ち上げたレーベル【No Limit Records】を90年代後半にかけて白人オーナーの大手レコードレーベルを打ちまかすほどの史上最強のインディーレーベルとして全米で1番儲かっているレーベルに成長させたことで、ニューオーリンズの名前を全米に知らしめ、さらにラッパーたちが音楽業界に搾取されないための音楽ビジネスのノウハウも伝授していきました。

ストリートの歴史 エピソード3-6
【言論の自由を勝ち取ったラッパー】


ニューオーリンズと同じくサウスに位置するフロリダ州マイアミからは、ポルノラップの先駆者こと2 live Crew(1985- ※結成はカリフォルニア) が、人種問わず地元の若者を中心に人気を得て有名になるのですが、リリックが卑猥すぎるということでCDの販売を禁止され、最終的に卑猥罪で起訴されるという事件が起きます。
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これに対して2 live crewのリーダーであるUncle Luke(1960-)は大金をつぎ込んで弁護士を雇い、『リリックで曲が規制されるのはおかしい。これは言論の自由だ。』と主張し法廷で真向勝負、その結果見事Uncle lukeはこの裁判に勝訴、これをきっかけにラッパーだけでなく、全アーティストの言論の自由が守られ、歌詞が原因で販売規制されるという心配がなくなりました。

 

ストリートの歴史 エピソード3-7
【Miami Bassの普及】


リリックにおける言論の自由を裁判の勝訴で獲得したAncle luke率いる2 live Crew(1985-)でしたが、いずれにしろ彼らの曲は卑猥で『子供たちに悪影響がある。』というクレームが来ていた為、それに対応するべくAncle lukeが作り出したのが、誰もが一度は目にした事のあるであろう、過激な表現を含むことを知らせるこの【Parental Advisory】ステッカーでした。
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そしてこのステッカーがアメリカのレコード協会に採用されて以降、現在も過激な表現が含まれる曲には決まってこのステッカーが貼られるようになりました。
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ちなみに初めてこのステッカーがついたとされるレコードは『Banned in the U.S.A』(1990)というAncle Lukeのソロアルバムでした。
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そうして2 live crewは全国的にその名が知れ渡るのですが、それと同時に彼らのサウンドの特徴でもあるMiami Bass(マイアミベース)というダンス向けのサウンドが広く知れ渡り、やがてこのサウンドがサウスのHip Hopのベースとなって、ニューオーリンズのバウンス、メンフィスのクランク、最終的にはアトランタのトラップへと派生していくことになります。
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※Miami Bass : マイアミ発祥のダンスミュージック。TR808の重厚なバスドラムと速いBPM(テンポ)、卑猥なリリックが特徴。

 

ストリートの歴史 エピソード3-8
【田舎の大スター誕生】


ニューオーリンズの2 live crewの活躍とほぼ同じ時期、テキサス州ヒューストンからは、NYとLAと張り合うことになる田舎の大スターGeto Boys(1986-)が出てくるのですが、彼らがLAとNYで勝手に盛り上がっているHip Hopに対して喝を入れるように出した曲が『”Do It Like A G.O.”』でした。
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『”Do It Like A G.O.”』※リリック一部訳
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東海岸では俺たちの曲がかからないって?
まじでお前らどうなってんだよ
ラジオ聞いてるやつにわからせてやるよ
もう良い加減NYから始まったのはわかったから
そのうぬぼれってやつを終わらせてやるよ
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するとこのミュージックビデオがYo!MTV Rapsに取り上げられ、『ずっと言いたかったことを言ってくれた!』ということでLAとNY以外の全域を代表するリーダーとしてGeto Boysが崇められます。

 

ストリートの歴史 エピソード3-9
【農耕地域に根差したカントリーラップ】


テキサス州の田舎から出てきた大スターGeto Boysと、そこからソロデビューしたScarface(スカーフェイス/1970-)は”ダーティサウス”というシンセを使った重厚的なサウンドが特徴的だったのですが、このサウンドを手掛けた神プロデューサーMike Dean(1965-)は後にKanye West(1977-)に声をかけられKanye WestとTravis Scott(1992-)のサウンドを担当することになります。
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そしてこのGeto Boysの活躍に触発され、同じテキサス州からはカントリーラップの開拓者UGK(1987-2007)が登場。
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UGKはオルガンやコーラスを取り入れることでゴスペルやファンクの要素をHip Hopに取り入れたカントリーラップを始めました。
カントリーミュージックは元々サウス発祥の音楽で、テキサスのような農耕地域に暮らすの人々の生活に根差したものだった為、UGKはサウンド面や使っている方言から地方ならではのラップだとして地方から絶大な支持を獲得しました。
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人口は少ないものの、この田舎ならではのカントリーラップは確実に受け継がれていきました。
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※カントリーラップの代表アーティスト:UGK / Nelly / Lil Nas X / Big K.R.I.T etc…

 

ストリートの歴史 エピソード3-10
【生粋のアトランタラッパー第一号】


以前NYからアトランタへ引っ越してきたMC Shy D(1986-2000s)に加えてDJ Toomp(1969-)がアトランタにコツコツ広めてきたHip Hopがようやく形になり始め、最終的にLAからきたLafaceという大手のレーベルによって記念すべき生粋のアトランタラッパー第一号としてKilo Ali(1973-)が発掘されます。

※Laface:サウスのHIP HOPを開拓した音楽レーベル。代表アーティストはTLC/Usher/T.I など

Kilo Aliに加えてRaheem The Dream、Hitman Sammy Samといった超初期のアトランタラッパーたちがここからマイアミベースを参考にした手探りのアトランタヒップホップを地元で広めていきます。

 

ストリートの歴史 エピソード3-11
【NYのDef Jam、LAのInterscorpe】


90年初期までにはHip Hopがサウス(アメリカ南部)にまで広がり、ここからHip Hopは地域ごとに独自の発展をしていきます。

舞台はまたWest Sideに移り1990年、LAでは長年に渡りジョンレノンの付き人のように働いて音楽業界を知り尽くしてきたJimmy Lovine(1953-)が、後にDr.Dreと一緒に2Pacやエミネム、ケンドリックラマーなどを輩出することになるレーベル【Interscorpe Records(インタースコープレコーズ)】を創立。

Jimmy LovineはDr.Dreと二人三脚でギャングスタラップを広め、NYのDef Jam RecordsのようなLAの軸となるレーベルに成長させました。

※Interscorpe Records 所属アーティスト:2pac/Snoop Dogg/Eminem/50Cent/Kendrick Lamar

また、同じ年にSnoop Doggは従兄弟のNate Doggと、Dr.Dreの義理の弟で幼なじみだったWarren Gと一緒に”213”というユニットを結成します。

 

ストリートの歴史 エピソード3-12
【ギャングスタラップの意外なリスナー層】


LAのギャングスタラップを開拓したN.W.Aは、政府に目をつけられながらも2ndアルバム『Niggaz4Life』をリリースするのですが、これがギャングスタラップ史上初となるビルボード1位を記録したことでヒップホップのサブジャンルとして始まったギャングスタラップがいよいよ本格的にポップスやカントリーなどの他のジャンルを凌駕し始めます。
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それまではレコードショップが自己申告性で人気のあるアルバムをビルボードに報告していたので、レーベルの都合のいいようにねつ造されたビルボードランキングが発表されていたり、実際の流行とは差がある曲がラジオでは流れていました。
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が、この年(1991)を境に売り上げが機械で直接報告される【サウンドスキャン】と言う”ごまかしの効かない計算システム”をビルボードが導入したことで、今までひいきされていたギャングスタラップやグランジと言った新しい音楽ジャンルはついに正当な評価を受けられるようになり、その流行を堂々と全国的に知らせることが出来るようになりました。
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更に、サウンドスキャンシステムのおかげで『どこの誰が、どの音楽を聴いているか』と言った、細かい情報も判別できるようになった結果、ギャングスタラップがここまでの大ヒットになった理由は ”ストリートの生活とは無関係な白人の若者たちが非現実的な体験ができる音楽としてギャングスタラップに食いついていたからだ。”と言うことが発覚しました。

 

ストリートの歴史 エピソード3-13
【社会現象になったベイエリア出身ラッパー】


N.W.Aは2ndアルバムでビルボード1位を獲得したものの、金銭問題が原因でDr.dreとIce Cubeが脱退。
その後Ice CubeがHIP HOP史上最高のディス曲といわれた”No Vaseline”(1991)をリリースし、N.W.Aはその役割を終えるのですが、ここからさらにLAのギャングスタラップはNYを置き去りにする勢いで進化していきます。
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90年代初期になると、LAより上のベイエリアから個性的なアーティストが続々と登場します。
Too $hort(1983-)は”女たらし”キャラでビルボード1位を記録して大ブレイク、いわゆる”ラッパーはチャラい”と言うイメージを定着させました。
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そして同じエリア出身のMC Hammer(1986-)もu can’t touch thisで大ブレイク。
このダンスは社会現象規模になり、MC Hammerは後にも先にもHIP HOPを一番世界に広げたラッパーとなりました。

 

ストリートの歴史 エピソード3-14
【ベイエリアから生まれた伝説】


Too $hortやMC Hammerの活躍により、HIP HOPシーンを賑わせていたベイエリアから、今度はDigital Underground(1987-)というおちゃらけ系のユニットが登場します。
こうしてベイエリアの個性的なラッパーたちがHIP HOPの”怖くない”側面を広げていくのですが、遂にこのグループからあの伝説が生まれます。

そう、2Pacです。

2Pacは家族と一緒にLAに移り、1991年にSame Song -Digital Underground (1991)という曲でラッパーとしてデビューするのですが、方向性の違いですぐに脱退します。

そしてその年の年末にInterscope Recordsからソロデビューアルバムをリリースします。
いきなり大ヒットとはなりませんでしたが、これまでずっと触れられてこなかった女性が抱える社会問題を強烈に風刺した曲や、警察の暴力を訴えた曲などをきっかけに、2pacは社会的弱者たちの代弁者として確実な信頼を得ていきました。

【Brenda’s Got A Baby】※リリック一部訳
彼女はクラックを売って生計を立てようとしたけど、結局は騙されちまった
じゃぁどうする、もう売るものなんて残っちゃいない
地獄みたいな暮らしから抜け出すために、自分の体を売ることにしたわけさ
それで家賃が払えるなら文句なしだもんな
売春婦の彼女は、今じゃヤクも売ってるぜ
彼女の名前はブレンダって言うんだ、赤ちゃんもいるんだぜ

【Trapped】※リリック一部訳
あいつらは俺をはめようとしてくる、警察の嫌がらせに取り調べ、
俺の身元を聞いてきやがって、まともに街すら歩けねぇ
何もしてねぇのに手を挙げさせられて壁に押しつけられる
俺に手錠をはめてコンクリートに叩きつけやがって

 

 

ストリートの歴史 エピソード3-15
【強奪金で作られた最強最悪のレーベル】


1990年代初期、ある意味”一番重要”と言われる事件が起きます。

『究極の一発屋』と言われている白人ラッパーVanilla Ice(ヴァニラ・アイス)の『Ice Ice Baby』(1990)が空前絶後の大ヒット。するのですが、当時NFL選手になれずボディーガードとして働いていたSuge Knight(シュグ・ナイト)がLAに来ていたVanilla Iceをホテルで恐喝。

大ヒット曲『Ice Ice Baby』で稼いだ売上金を巻き上げて、N.W.Aから脱退したDr.Dreと一緒に最強最悪のレーベル【DEATH ROW RECORDS】(デス・ロウ レコーズ / 1991-)を設立します。

そして同じ頃にラッパーのWarren G(ウォーレン G)がDr.DreにSnoop Doggを紹介するのですが、Snoopの声に一目惚れしたDr.Dreは”自分のアルバムにどうしても参加して欲しい”とSnoopを説得し、そのままSnoopもDeath Row Recordsに所属することになりました。

エピソード3はここまでです!
次回からはついにメインストリームに上り詰めたギャングスタラップの歴史をお届けします!