The History of Street Culture Episode-2

ストリートの歴史 エピソード2-1.
【NYの大停電とHIP HOP成長期】.
James Joseph Brown

1977年7月13日、ハドソン川の変電所で落雷が発生。
ニューヨークでクリスマスとも呼ばれた大停電が起きました。.
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その夜、暗闇に包まれた街中の店から、物という物が盗まれ、一夜明けたその翌朝なんと、、、ゲトーから大量のDJが誕生。
※ゲトー:スラム街などの貧困地区のこと.
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HIP HOP黎明期の3大DJ、グランドマスター・フラッシュ(Grandmaster Flash 1958-)やクールハーク(Kool Herc 1955-)、アフリカ・バンバータ(Afrika Bambaataa 1957-)に憧れたゲトーの黒人たちがDJセットを大量に店からパクリ、翌日ニューヨークにDJが大量発生したわけです。.
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このおかげでHIP HOPの音楽活動がより活発になり目立つようになった結果、彼らがやっていた音楽が世間から”ラップ”と呼ばれるようになりました。.
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1970年代後半に差し掛かったこの頃、ジェームスブラウンが発展させたFUNKは一時的に衰退を迎えますが、それと入れ替わるようにジョージクリントンが発展させたPファンクはやがてピークを迎えます。.
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余談ですが、Netflixに当時の様子を題材にした『ゲットダウン』と言う映画があるので、文章読むのが苦手な方はそちらを見てみても良いかもしれません☆
ヒップホップ界のパイオニアであるDJ、グランドマスター・フラッシュ、DJクール・ハーク、アフリカ・バンバータのほか、人気ラッパーのNasがラップ指導も担当、マイケル・ジャクソンやマドンナの振付師として知られるリッチ&トーン兄弟が振り付け担当したそうなのでストリート好きなら楽しめる作品ではないかと思います!

 

ストリートの歴史 エピソード2-2
【HIP HOPに訪れた転機 その①】

The Sugerhill Gang

HIP HOP成長期の1970年代後半、HIP HOPに大きな転機が訪れます。

当時、超人気歌手だったシルビア・ロビンソン(Sylvia Robinson / 1936-2011)が、ブロンクスのストリートで”ラップというものが流行っているらしい”という噂を聞きつけ、ストリートからラップできる人を適当に集めて『The Sugerhill Gang』というHIP HOPユニットを結成させます。

そして誕生した『Rapper’s Delight』(1979)と言う曲は、初めてレコード化されたHIP HOPの曲となっただけではなく、ビルボードのPopチャート36位にランクインし、初めて大衆的にヒットした史上初のHIP HOP曲となったことで、NY以外の地域にもHIP HOPという音楽をしらしめました。

※HIP HOPは公園やストリートでDJやMCが即興で作り出す音楽だったので、レコーディングには当初多くの人が反対しました。

 

ストリートの歴史 エピソード2-3
【HIP HOPに訪れた転機 その②】

Blondie
Sugerhill Gangの誕生により、HIP HOPがNY以外の地域にも認知されはじめた1970年代後半、HIP HOPに2つ目の大きな転機が訪れます。.
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当時大人気だったBlondieというロックバンドが、HIP HOPの創始者でもある”Grandmaster Flash”や”Fab5Freddy”の名前を引用したラップパートを入れた曲をリリース。この曲がビルボードで1位を記録。
最大級の音楽番組だったMTVを通して全国放送されたことで、HIP HOP史上初めてテレビ放送されたラップが入ったミュージックビデオとなりました。.
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これらをきっかけに、ゲトーから誕生したHIP HOPの存在が少しずつ全国に知れ渡るようになります。.
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しかし、いいことがあれば悪いことも起きます。。。

 

ストリートの歴史 エピソード2-4.
【黒人コミュニティの破壊】※R-13.

Ronald Wilson Reagan
当時1番の影響力を持っていたMTVの放送が始まった1981年、この頃を境に政府が意図的に持ち込んだとされる”クラック”という安くて中毒性の高いドラックがLAのゲトーから全米に広がりました。.
※クラック:コカイン(粉状)を固形にしたもの.
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これに当時大統領だったレーガン大統領が厳罰化を命じると、逮捕者が続出。
前科があるせいで職に就けない黒人が増え、1983年には黒人の失業率が21%を記録しました。.
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しかし生活費を稼ぐ手段として、子供も大人もドラッグを売るかバイトをするしかない状況に陥っていたので、この悪循環から抜け出せずに逮捕者や中毒者も引き続き増加したことで、瞬く間に移民や黒人のコミュニティは破壊されていきました。

HIP HOP文化は数十年にわたってレーガン時代を近代アメリカ史の中で危険で決定的な転機として引用し、多くのラッパーたちによって反レーガン批判記録が曲に残されています。.
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そしてここから奴隷制以降、黒人の歴史における第2の暗黒時代が始まります。

 

ストリートの歴史 エピソード2-5
【ザ・メッセージ】※R-13.

Grandmaster Flash

クラックの蔓延と逮捕者で町と人が崩壊した状況の中、今までノリや踊れることを重視してきたHOP HOPは、ついに曲を通してゲトーの現実を世界に伝えて助けを求めるという役割を担うことになります。.
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そして1982年、ラップがストーリーテリング(物語や体験を伝える)としての役割を背負った最初の曲【The Message】が誕生します。
By Grandmaster Flash and the Furious Five.
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そのリリックがこちら↓.

『おい、もう追い詰めないでくれよ、

俺はもう極限状態なんだ

正気を失わないように必死なんだよ

そこら中にガラスが散らばってるし、

みんな平気な顔して階段でションベンしてる

俺はもうこの騒音と臭いには我慢できない

引っ越したくても金がないから出来ねぇんだ

居間にはネズミ、バッグの中にはゴキブリ

野球バットを持ったヤク中がその辺にいるんだ』

この曲がラジオでもかかったことによって、政府に見捨てられたブロンクスは今本当にヤバい状態にあるという現実をアメリカは知ることになります。

 

ストリートの歴史 エピソード2-6
【名機を産み出した日本人】.

Afrika Bambaataa

1982年、ズールネーションを立ち上げたアフリカバンバータ(Afrika Bambaataa / 1957-)が『Planet Rock』というテクノとHIP HOPを混ぜたような曲を出した事で、HIP HOPと他のジャンルの音楽を混ぜる、という考え方ができ始めます。.
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※ズールネーション…1973年にNYのギャング集団を統合して設立された”非暴力HIP HOP組織”。.
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ちなみに、この曲は現在もトラップで大活躍しているローランド社の電子ドラムマシーンTR-808(通称:ヤオヤ)がすでに使われていたことでも知られています。.
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※トラップ…サザンヒップホップ(アメリカ南部のHIP HOP)のサブジャンルで、よりダンス/クラブ向けのアップテンポな楽曲。近年、パーティー系のクラブでHIP HOPと呼ばれているものの大半はこれです。.
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現在のトラップミュージックに欠かせないこのTR-808は、当時Roland社の技術部長だった菊本忠男さんという方が開発しました。
(HIP HOPの発展に日本人が大きく関わっていると知るととても嬉しい気持ちになります!).
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本来はここまでが”オールドスクール”と呼ばれていました。
ここから少しずつ、ゲトーの人たちによる構成プログラムだったHIP HOPは世間に認知されていき、黒人達がドラッグではなく音楽という真っ当な方法でお金を稼げるように進化していきます。

 

ストリートの歴史 エピソード2-7
【KING OF POPとブレイクダンス】.

Michael Jackson

1983年、マイケルジャクソン(Michael Joseph Jackson / 1958-2009)がブレイクダンスにヒントを得た"ムーンウォーク"を披露したことで、ブレイクダンスの知名度が爆発的に上がり、ブレイクダンスやロッキンというダンスが流行しました。.
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一方この頃LAでは、Dr.dreがWorld Class Wreckin’ Cru(LAのエレクトロ音楽グループ)のDJとして活動を開始。
プリンス(Prince Rogers Nelson / 1958-2016)は”Purple Rain”というP-Funkに影響を受けた曲をリリース。
2Pacは当時高校生でした。.
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まだこの頃HIP HOPは出来初めで、しっかりとした形が定まっておらず模索状態、ファッションもGrandmaster FlashやAfrika Bambaataaが着用していたショーのような派手な着飾りが目立ちましたが、ストリート感を前面にだしたRUN-DMCの登場をきっかけに、いよいよその基盤のようなものが出来上がります。

 

ストリートの歴史 エピソード2-8
【ストリートファッションの始まり】.

RUN-DMC

1980年代前半、RUN-DMC(1982-2002)のデビューをきっかけにストリートファッションの基盤のようなものが出来始めます。.

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ショーのような派手な着飾りが目立っていたHIP HOP誕生初期、RUN-DMCは自分たちがストリートで着ていた私服のまま観客と同じような服装でステージに登場。
これがストリートの人たちに受け、”紛れもないリアルなラッパー”として絶大な人気を得ただけではなく、これと同時に彼らの代名詞であるアディダスのスニーカーがストリートウェアとして世間に認知されるようになりました。.
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更に翌年には、RUN-DMCのメンバーの一人、ジョセフシモンズ(Joseph Simmons / 1964-)の兄であるラッセルシモンズ(Russell Simmons / 1957-)が、後に世界で最も影響力のあるプロヂューサーと称されるリックルービン(Rick Rubin / 1963-)とともに『HIP HOPを世界に認めさせる』という信念を抱えたレーベル【Def Jam Recordings】を創立します。

 

ストリートカルチャーの歴史 エピソード2-9
【一世を風靡した革新的グループ】

Beastie Boys

1984年、『HIP HOPを世界に認めさせる』という信念を抱えたレーベル【Def Jam Recordings】が創立され、LL Cool J(1968-)が最初のアーティストとして契約、HIP HOPで初めてバラード調の曲を歌ったことで女性から圧倒的な人気を誇りました。
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更に、元々ハードコアパンクバンドだったBeasty Boys(1979-2012)は、途中からHIP HOPに路線変更してラップにロックの要素を取り入れたスタイルでビルボード1位の大成功を収めたことで、白人の若者もHIP HOPに巻き込むことに成功。
彼らのファッションスタイルもまた若者の参考となり、革新的なグループとして一生を風靡しました。
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💡豆知識💡
HIP HOPカルチャーの新しい扉を開いたDef Jam Recordsの在籍アーティスト
LL Cool J/Beastie Boys/Jay-Z(1969-)/Nas(1973-)/Kanye West(1977-)など….

 

ストリートの歴史 エピソード2-10
【HIP HOPとMTV-1】

Aerosmith

Def Jam Recordingsに所属していたBeasty BoysとRUN-DMCは、ロックを混ぜたHIP HOPスタイルが特徴的だったのですが、アンダーグラウンドだったHIP HOPが当時より広いオーディエンスを獲得するには、ラジオで曲を流してもらうことが一番の課題であり、そのために当時流行していたロックの要素を絡めることが不可欠でした。.
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その為、Def Jam Recordingsは1986年に『Walk This Way』(日本では『踊る!さんま御殿』のエンディングでお馴染みの曲です!)という曲でRUN-DMCとAerosmith(1973-)をコラボさせたのですが、この曲がラジオでかかったのに加え、当時最も影響力のあった番組MTVがこの曲を取り上げたことで、ついにHIP HOPが国境を跨ぎ、国際的な認知度を得ました。

 

ストリートの歴史 エピソード2-11
【HIP HOPとMTV-2】

Fab 5 Freddy

1988年、RUN-DMC(HIP HOP)とAerosmith(ロック)のコラボ曲『Walk This Way』の成功の甲斐あって、これまでほとんどロックしか取り扱ってこなかったMTVがついにHIP HOPの実力を認め、『ラップが数字(視聴率)取れそうだからやってみようか!』と言う事で、ラップ専用のテレビ番組『Yo! MTV Raps』の放送を開始します。
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司会はグラフィティアートを通して業界で絶対的信頼のあったFab 5 Freddy(1959-)が務め、ラッパーたちの生活や作曲の裏側などをインタビューし、それをテレビ放送したことでラッパーたちが芸能人のような扱いをされるようになりました。
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※グラフィティアート:主にスプレーを用いて、公共の場に描かれる文字および絵のこと。
一部マニアの間では、描きにくい場所に描かれたものほど高く評価される傾向があるという。
これを芸術だと解釈する人は「グラフィティ・アート」と呼び、悪質ないたずらと解釈する人は「落書き」と呼ぶ。
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そういえば先日『大阪市某エリアの落書き撲滅運動が成功しました!』と言うグラフィティが全消されたと言う記事を読んで、なんだか言葉にできない気持ちになりました。w
芸術とは何か。ルールとは何か。
グラフィティに関しては語りたい事が多いのでまた別で特集します!

 

ストリートの歴史 エピソード2-12
【高まるHIP HOPの勢い】.

Andre O'Neal Harrell

RUN-DMCの成功からしばらくして、Def Jam Recordingsで働いていたアンドレ・ハレル(Andre O’Neal Harrell / 1960 – 2020) は、次にR&BとHIP HOPを主体としたレーベル【Uptown Records】(アップタウンレコーズ)を創立。.
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アンドレ・ハレルはこのレーベルを通してPuff Daddy(1969-)やMary J. Blige(1971-)といったNYの大スターたちを発掘していくことになります。.
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こうしてNYでHIP HOPの勢いは順調に高まっていくのですが、ここでNY市クイーンズ区東部クイーンズビレッジを代表するThe Juice Crew(1983-1991)と、NY市ブロンクス区南西部サウスブロンクスを代表するBoogie Down Productions(1986-1992)という2つの大人気グループの間で『HIP HOPはNYのどこで本当に始まったか』をめぐってHIP HOP史上初となる大規模なビーフ【The Bridge Wars】が始まります。.
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※ビーフ:アーティスト間の喧嘩や揉め事。

 

ストリートの歴史 エピソード2-13.
【ギャングスタラップの始まり】

Scott La Rock
1987年、KRS-One(ケアレスワン / 1986-)率いるBoogie Down Productionsが、The Juice Crewをディスった『Criminal Minded』というアルバムをリリース。.
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これがNYでギャングスタラップが始まるきっかけとなるのですが、当時人気絶頂だったBoogie Down ProductionsのメンバーScott La Rock(1962-1987)が銃殺されてしまったことを受け『ラッパー同士で争うのはやめよう、改めて俺たちのルーツを思い出して団結しよう』という動きがNYで出てきます。
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※ギャングスタラップ:ラップのジャンルの1つ。一般的には暴力的な日常をテーマにしたラップミュージックを指す言葉。代表的なアーティストは Dr.DRE / Snoop Dogg / 2pac etc…
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※ギャングスタラップの本当の始まりはNYではないので注意
※ディスる:相手を否定する、または侮辱することなどを意味する表現

 

ストリートの歴史 エピソード2-14
【ラップ概念の変化】

Eric.B & Rakim
1988年、平和主義のHIP HOPユニット【Native Tongues】(1988-late 1990’s)が結成され、そこからオタクっぽいDe La Soul(1987-)や、アイデアあふれるA Tribe Called Quest(1985-1988 / 2006-2013)が排出されたのに加え、女性初のラッパーと言われているMC Lyte(1987-)も同じ頃に出てきたおかげで『HIP HOPは必ずしも荒々しくなければいけない』という概念を打ち壊し、同時に彼らがリリースしたアルバムによってサンプリングの重要性が広がっていきました。
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更にそれと並行するように出てきたのが、Eric.B & Rakim(1985-)。
特にRakim(1968-)がメロディーに乗せて這うようにラップをするフローという概念を打ち出したのに加え、”酒に女”にといった軽い内容のリリックが目立ったHIP HOPから一転して中身がある道徳的なラップをするコンシャスラップを発展させたことで、HIP HOPにおけるリリックの濃さや質、思想が格段に上がりました。
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※フロー:ラップするときに強弱やリズムをつける
※コンシャスラップ:意識的で人に考えさせるような内容
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Rakimは現在でも最も偉大なMCの一人と呼ばれていて、彼のファンだったASAP Rockey(1988-)のお母さんはロッキーの本名として彼をRakimと名付けたそうです。
※ASAP Rockey 本名:Rakim Athelaston Mayers
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エピソード2はここまでです!
次回からはストリートの歴史 エピソード3 お楽しみに!